参院選が始まりました。政権放送では手話が入るようになりました。ニュースなどでも手話が多くなってきましたよね。手話付きの放送を見た時、誰も一度は思うこと。
「字幕で良いんじゃないの?」
私も以前はそう思っていました。生放送であれば速報性が必要なので手話の必要性も理解できるが、それでも最近のAIの進化を考えると字幕はリアルタイムで可能のはず。とすると、どうして手話が入るのでしょう。
これは「日本語」と「日本手話」は全く異なる言語体系であるからです。同じ日本に住み、日本の文化を共有しているという共通項はあるものの、別の言語なのです。日本語も日本手話もわかるバイリンガルの方にとっても、それでも第一言語が日本手話である方には不便があります。日本語を母語としていて、ある程度は英語がわかる方が、英語字幕をみることを想像するとそのイメージがわかると思います。
そんな話を友人としていると、次のような質問をうけました。「日本手話と日本語の違いの距離感は、日本語と英語の距離感とどれくらい違うのだろうか?」
私の所属する手話クラブの友人に質問をぶつけてみました。これは人によってまちまちだそうです。例えば両親が聴者である場合は、日本語の環境下で育つので日本語に馴染みが深くなります。一方で両親もろう者であるデフ・ファミリーで育った場合は、第一言語が日本手話になります。また、ろう文化で暮らすことにより日本語話者特有の文化とは異なる文化圏で育つという背景もあり、両方の言語の距離は遠くなる、ということもあるそうです。そのため日本手話と日本語の違いの距離感は、ちょっとした違いの人もいれば、大きな違いの人もいるそうです。
そう考えると、同じ日本に住む人に情報をくまなくニュースで伝えるには、字幕ではダメで手話も必要という意味がわかってくると思います。
さきほど私は手話クラブメンバーと書きました。数年在籍しているにも関わらず進歩がなくて、飲み会専任になっちゃっていますが、手話クラブの飲み会はめちゃくちゃ面白いです。話し言葉は情報の伝達手段として音を使います。一方で手話は目で見て伝える、つまり光を伝達手段として使います。そうすると飲み会で何がおきるか?
内緒話ができないのです。
隅の方でヒソヒソ話していると、遠くの方から話を見ていた人が突如として会話に割り込んできます。最初は手を大きく振っているから何かな?と思っていましたが、その人に気がつくと会話に参加してきます。みんなが酔っ払ってきた終盤ではカオスな状況が進み、会話が錯綜します。これは手話ならではの醍醐味でしょう。
また手話がもう一つ魅力的なのはその表現にあります。指を使ってとても繊細な細かい表現をします。例えば「海が好き」と表現したい場合、海がどれくらい好きかの程度を表すときは、指の閉じ開きの大きさで表現します。一方で「山より海が好き」と表現したい場合は、山と海を別々の空間に表現して、その上で海が好きと表現します。このように空間表現を最大限に利用します。もともと、音よりも映像の方が情報量が圧倒的に多いので、それを言語としてフル活用しているわけです。
言語は使う人が広がれば広がるほどコミュニティが拡大するので、手話をマスターしたい。またユヴァル・ノア・ハラリは「認知革命」という概念を提示し、数十万年も変わらなかった人間が劇的に進化したのは言語を獲得したとき、と語っています。とすると、手話によって新しい表現方法を身につければ、さらに劇的に進化できるはず・・・と思いながら数年たってしまった私でした。

2025年7月14日
アストロライフ合同会社 代表
丹羽雅彦