テクノロジー

魔族の言葉と生成AI

私は「葬送のフリーレン」というマンガが好きです。絵が今風で舞台設定もファンタジーのため、オールドマンガファンは敬遠してしまいがちですが、主人公たちの会話のやりとりが素晴らしく、その壁をぜひ乗り越えて読んでほしい作品です。その葬送のフリーレンには、人間と同じ言葉を操る魔族が登場します。人間が他人とコミュニケーションを取るために言葉を話すのに対して、人間を捕食する魔族は人間をあざむくために言葉を話します(捕食と聞いて敬遠した方は安心ください。そういうシーンはでてきません)。魔族の言葉が人間と決定的に違うのは、魔族は言葉の意味を理解していません。話している意味がわからないまま、人間とスムーズな会話ができるのです。たとえば家族の思い出を人間と語りあった後にも、魔族同士の会話では
 「父上って何?」
 「なんだろうね」
というやりとりをします。家族という概念がわかっていないのに、人間の感情に訴える言葉を交わすことができるのです。
 「あ、これは生成AIと同じだ」
と私は気づきました。

生成AIが人類をあざむく、という話ではありません。生成AIは、発する言葉の意味をわかっていないまま人間とスムーズなコミュニケーションができる、という点で魔族の言葉と本質が同じと感じたのです。よく「生成AIは平気で嘘をつく」と言われることがありますが、これは正確な表現では無いと思います。間違いかどうかなんては気にしちゃいない。中身を気にせず、コミュニケーションの円滑さに絞るのは魔族の言葉と同じです。

「知能とはなにか ヒトとAIのあいだ(田口義弘著)」によれば、生成AIで登場してわかったのは「我々が知的な作業だと思っていたものは、知能が存在しなくても実行可能だった」という事実だそうです。つまり人間型の知能を持たなくても、人間と同じく知的作業ができる、ということです。私たちは毎日いろいろなことを考えているにも関わらず、思考の源である知能が何か定義できていません。機械が知能をもつか判定するためのチューリングテストでは、人間が会話した相手が機械と認識できなければ合格でした。知能が定義できないので、間接的に外的なパフォーマンスから判断しようという考えです。しかし生成AIの登場によりチューリングテストでは機械が知能を持つかは判定できなかったことになります。また田口氏によれば人間の脳も生成AIも「世界シミュレーター」であることに違いはないが、その構造は全く異なっています。大量のコンピューティングリソースとデータによって、人間とはまったく異なる手法で人間の知的作業の領域に踏み込んできたのが生成AIというわけです。

では、そんな生成AIにどう対抗するか?

「対抗ではなくて使いこなしだよ」という声が聞こえてきそうですが、私には生成AIを手なづける自信がありません。だから生成AIが氾濫するなかで、どう自分のオリジナルを作っていくかが問われていると感じます。生成AIは過去の情報、それもネットにある情報を捕食して成長します(捕食と書いたのは、自分がネットで公開している天体写真画像の処理手順もAIによって機械学習されているのを目の当たりにしたからです。まあ、それはノウハウなので良いですが、作品などクリエイティブを機械学習されることは問題視しています)。生成AIが、人間のこれまでの活動が集積されたネット情報を養分としているのであれば、未来のこと、ネットの外が重要になってきます。過去から類推する未来は生成AIの範疇ですが、感覚をフルに動員して未来を読むことは真似できません。感覚を動員するには、「身体感覚」をフル活用する必要もあります。まさにネットの外で起きていることです。そうしてできあがった、身体感覚をベースにしたコンテンツは、まだ自分だけのものと感じます。私の場合は「これは変だぞ」とか「これは面白い」と感じると心臓がドキドキします。以前の怒りを捏造の記事にも書きましたが喜怒哀楽によって心臓がドキドキします。心臓の動きは私の身体感覚をつかむのにキーとなっているようです。

現代において体験価値が重要視されているのも、身体感覚を養うことができるからだと思います。「さあ、ネットを離れて世の中を体験しよう・・・」とか言いながら、今日もスマホを握りしめている私でした。うーん。第一歩ですでにつまづいています。

2025年10月20日
アストロライフ合同会社 代表
丹羽雅彦

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