なんだかモヤモヤしているけれど、その現象の名前を知ることで一気に物事がわかってスッキリすることがあります。今風にいうと「言語化できてスッキリした」の一形態かもしれません。以前に書いた「いらない情報」という言葉もそうですし、私の中の最近のヒット作は「ルッキズム」です。
ルッキズムとは人を容姿を基準にして評価し、不平等な扱いをする行為を指します。人には見た目の評価が常に付きまといますが、容姿は本人にはどうすることもできません。テレビでは今もタレントや素人の出演者の見た目をいじることが多いように思います。また人としてまだ未成熟な小学生などをみていると、人間はそのまま放っておくと見た目で人を判断する生き物だともつくづく感じます。遥か昔に、強そうな見た目を持つ人にくっついていた人や集団が、生き延びてきたからかもしれません。しかし物事を学んだり経験する中で「それは何かおかしいぞ」と気がついてきます。一方で、私自身も見た目で人を判断したりされたり、ということを、いまだにしているようにも思います。そういった「何かいけないことは思うけれど、ついやってしまう」というジレンマを感じていました。最近、そういった人間の一連の行動をルッキズムと呼ぶことを知りました。言葉を知るとスカッと理解できて、自分がそういう思考をしたとき「あ、これってルッキズムだよね」と気がつくようになりましたし、見た目で人を判断しないための指針にもなりました。長年連れ添った悪弊を取り去り、不平等な思考する自分を変えることができつつあると感じます。
解釈的不正義とは?
2007年にミランダ・フリッカーという哲学者が「解釈的不正義」という言葉を提唱しました。これは「ある人や特定の集団が、自分の経験を理解したり説明したりするための言葉や概念を持っていないため発生する不利益」のことを指します。フリッカーが挙げる典型例がセクシャル・ハラスメントです。主に男性による女性への性的な嫌がらせはかなり前から存在していました。しかしセクハラという言葉が存在していなかった時代には、女性は「とても嫌」という気持ちを抱えながらも、周りからは「コミュニケーションの一環だ」とか「冗談だよ」とか言われ、真剣に扱われることはありませんでした。しかしセクハラという言葉が1970代に登場すると、同じ経験をもつ人たちが「私もそう」「私もずっと嫌だった」と声をあげ、これは単なる個人の経験ではなく、多くの人々に共通する経験だと初めて認識されたのです。つまりセクハラという言葉が登場する以前と以降では、人類がその経験への理解に大きな差が出たわけです。前述のルッキズムも薄々感じていた違和感に対して、ルッキズムという強い言葉が与えられることで、行為の問題点を浮き彫りにすることができ、またルッキズム抑制のための世界的な活動の広がりもおきています。
解釈的不正義という言葉で面白いのは「不便」ではなく「不正義」という言葉を当てていることと思います。言葉がないから不便だ、ではなく、言葉がないから不正義が起きているというのです。記号化して意味付けすることで、他者との経験の共有ができ、そこから人々の間に共通骨格が生まれます。日本は空気を読むことが推奨されるハイコンテキストな社会ですが、その空気感に埋没される困りごとを顕在化させるために、言葉にすることが大切なんだと思います。
人間は視覚、聴覚、嗅覚などみんな違うので、他人と自分は全く同じ経験をすることはできません。そのために言語という記号を介して、人と概念や経験を共有します。「言語化できました」というのは、個人の体験に記号をあたえて他者と共有することができるようになることとも言えます。また今回のように言葉にすることで自分の行為の意味を知ることもできます。「当事者研究」で実践しているのも、障害を持つ方や困りごとを持つ人が、自分のマイノリティの体験に言語という記号を与えることです。言語をあたえることで、自分以外の他者も同じ困りごとをかかえていたのだ、と理解することができるのですね。
ここまで書いたところでひとつ気がつきました。私はこの1年ほど、プライベートでずっとモヤモヤと悩んでいること、困っていることがいくつかあります。それにも名前をつけることでスッキリするかもしれないし「私もそう」と他者と共有できるかもしれない。名前をつけるだけで生きやすくなるなら、それはお得ですよね。

2026年6月8日
アストロライフ合同会社 代表
丹羽雅彦